天下人たるもの
人にはそれぞれ器ってもんがあるね
器の大きさはさまざまで、こればっかりは生まれもった宿命だから、努力しだいでどうこうってもんでもない。
コップにたとえれば、大きいコップ、小さいコップ、また、それこそワイングラスのように優雅なものもあれば、湯のみのように無骨なものまでさまざまだ
大事なことはその器(うつわ)をどう生かすかで、こっからが努力ってやつの出番だと思う。
小さくても器一杯に水を満たす人もいれば、大きい器なのにほんの少ししか水を入れない人もいるだろう。
入れるものも、冷たい水、あったかいお湯、ジュースもあれば、アルコールだってと、さまざまだ。
だけど、湯飲みでワインはちょっとおかしいし、やっぱり湯飲みにはあったか〜いお茶を注いで飲みたいものだよね。
ようは、その「器」の形や、素材を生かして、そこに一番あったものを満たす。その姿こそが、一番自分を輝やかせてくれるんだと思うんだ。
それが僕の考える「器」観。
しかし、この器をはき違えちゃうと、これがまた悲惨なパターンになることが多いのよねw
ましてや、人の上に立つようなリーダー的人物が、それ相応の器でなかったとしたら...
その人自身も悲劇だが、その人の下にある民衆はもっと悲惨なことになっちゃう。(どっかの国の話じゃないけどね)
僕はね、やっぱり、どうしたってリーダーになる人には、それなりの「器」ってもんは必要だと思うんだ。ドーンとかまえて揺るぎない、なんかこう、「この人別格!」って思わせる何かがさ。
懐の深さかなぁ。「この人について行けば大丈夫」って思わせてくれる人。そういう人の下にいる時は安心するよね。
え?あたし?
あたしゃそんなタマじゃぁ〜ないからねw
そんな人がいたら、「一生あなたについて行きます♪」ってな調子いいタイプよ(笑)
それでもさぁ、時に人生においては、人の上に立って何かを志すことはあるだろうし、民衆のために何かを行なうとすればある程度の立場ってもんが必要になる場合だってある。
生まれつきの社長の跡取り息子とかさぁ、もう人の上に立つことが約束された立場ってゆうの?これもまた大変だよね。
物質的には恵まれてるかもしれないけど、向き、不向きってのもあるし、親は自分のような苦労をさせまいとして全て満たして育てるから、ミョ〜に根性なしになっちゃうパターンとかね。(ん?俺のことか?片腹じゃなくて、耳が痛いっすw)
ま、いい「器」を持っていても、それを満たす努力をしないとやっぱりダメってことだろうね。
え〜と、こっからが本題かな。。。(長い前振りだなw)
あたしゃけっこう戦国時代とか、幕末とか、日本の歴史に興味があってさ。
現代でこそ、戦国時代の武将や、大名の生き様や考え方、合戦に至る経緯とか、事細かに分かってるじゃない?
でもさ〜あ、実際に当時にいた、それこそお百姓さんみたいな下々の民衆たちはそんな事分かるわけないじゃん。だから、どんな風に思ってたのかなって、考えたりするのよ。
殿様なんて雲のまた上の存在だし、今みたいにマスメディアなんてあるわけ無いから、世の中の情勢なんてまったく理解する余地も無いだろうし...。
言われるがまま、なすがままで、世の流れに身を任すしかなかっただろうね。
そして、いざ合戦!ともなれば、駆り出されるのは彼らなわけで、意外かもしれないけど、戦国武将の率いた軍勢の9割は彼らのようなただの領民だったらしいんだ。
例えば、合戦で死者が千人出た場合、武士の割合は一割か、一割五分(つまり100人〜150人)で、残りはすべて武士以外の領民たちである。ってゆう記述もあるんだよね。
とゆうことは、実際に戦ってるのはほとんどが名もない領民(お百姓さん)達なわけ。
偽物の刀ぶら下げたり、丸腰だったりしてさ。戦場を右往左往してるうちに武将に「えいっ」て切られちゃうの。
そんな明日知れぬ生活さ。
夜はむしろの上に寝そべり、シラミにかまれた身体をかきむしりながら、となりで寝息を立てる妻と子供を見ながら男は思うんだろうな...
「あ〜ぁ、また戦(いくさ)が始まるのか...明日はついに駆り出されることになるかもしれん。今日も戦。明日も戦。年貢の取り立ても厳しくなるばかり...。
誰が殿様になってもかまわんが、早く戦のない世の中になることを、願うばかりじゃ...」
...と、ここまで書いてふと気づく。
「ん?あれ?これって、今とあまり変わりないじゃん」って。
そうか、そうだね。
別にあの頃も今もきっと大した違いは無いんだな。あの頃を「乱世」と呼ぶなら、現代はまさに「魂の乱世」だ。
そういう意味では、同じ下々の民として、考えてることに大した変わりはなく、今の俺と同じかも知れないなぁ...なんて
「政治家なんて誰がなっても一緒だよ。誰でもいいから、少しでも暮らしを楽にしてほしい。戦争をなくしてほしい。」な〜んてみんな思ってるんだからさ。
「先生」なんて呼ばれてるうちに自分が偉いと勘違い。ふんぞり返ってる政治家もいる。
表じゃいい顔してさ、裏じゃ何やってるかわかったもんじゃない輩もいる。
世のため、人のためなんて言っても、実際はどうやって私腹を肥やすかしか考えてない奴もいる。
今日もテレビでやってたよ、どこぞの県の市会議員6人が、政務調査費(ようは血税だな)で、ディズニーランドに行ってただの、子供のマンガを買ってるだの、10分間に3回もガソリン入れてるから、拾った領収書計上したんだろう、だの、見てるこっちがあきれて、もう笑うしかないよね。
コメンテーターが言ってた。「昔は私財をうって活動する政治家もいたけど、今は議員が職業になっちゃって、身の保全ばかりを考える職業議員ばかりになっちゃった」って。
でも、そんな人間がリーダーになったとしても、民衆はそれについて行くしかないじゃない。
ただ、戦国時代と違うのは、「民主主義」のおかげで、「愚かなリーダーを選んだ民衆はさらに愚かだね」システムてのがあるから(笑)、自己責任でしゃ〜ないってあきらめがつく部分があるけどさ。
織田信長は言った。。。
「天下を盗もうとする輩(やから)はいくらもあるが、天下を憂うるほどの人物は少ない」
今の日本の政治家どもに聞かせてやりたいね。
徳川家康はその息子、長松に大将としての心構えをこんなやりとりで説明している。
家康「なぜ、大将が家来よりも励み慎まねばならぬか存じておるか」
長松「はい...分かりませぬ。分かっているようで分かりませぬ」
家康「大将というものはな敬われているようでその実、絶えず家来に落度を探されているものじゃ。恐れられているようで侮られ、親しまれているようで疎んじられ、好かれているようで憎まれているものじゃ。」
「したがって、家来というものは禄でつないではならず、機嫌をとってはならず、遠ざけてはならず、怒ってはならず、油断させてはならないものだ。」
長松「ではどうすればいいので?」
家康「よくたずねた」
「家来はな、恐れさせねばならぬものよ。別の言葉で心服というが 心服は事理を超えたところから産まれてくる。感心させて感心させて好きでたまらなくさせていくのじゃ。」
長松「はい」
家康「そのためには、常日頃の行動みな家臣と違っていなければならぬ。それでなければやがてよい家臣はみな筑前にとられようでな。」
「家臣どもが白米を食べたらこなたは七分づきか麦を食べよ。家臣どもが五時に起きたら こなたは四時に起きよ。辛抱も節倹も家臣を超え、思いやりも家臣を超える...それでようやく家臣は心服しこなたを敬うて離れなくなる。そのための大将の修行ぞ」
長松「はい。前にもましていっそうに励みまする。」
(「徳川家康」山岡壮八 より)
人の上に立とうとするとき、この家康の言葉はすごい重みを持って胸に届いてくる。
「大将」を「政治家」に、「家臣」を「民衆」に置き換えると分かりやすいかも。
400年も前の日本にこんな事を思える「大将」が存在したんだよ。
すごくない?
信長や秀吉に比べると華が無くて人気がない(気がする)家康だけど、俺はこの人の生き方や考え方が大好き。
「覇道」と、「王道」の違いって分かる?
この人はどこまでも「王道」を行った人。
戦の無い、泰平の世の中を誰よりも願った人。
時代の裂け目には必ず英雄が現れるという。
ましてや、千年に一人と言われるような不世出の英雄たちが、きら星のごとく登場したこの時代。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、伊達政宗...
そして、現代もまた、時代の裂け目である。
今の日本に、国を憂う、こんな大人物が一人でもいてくれればなぁ...と、そんな人間の登場を心から願わずにはいられない、今日この頃であった。